暴力的な白の中、ホカホカ汁物

TCKによる元・留学ブログ。夢を手放して色んなことをリハビリがてらやりたいな

好きな景色への向き合い方

いきつけのスーパーのすぐ近くにはホームセンターがある。ちょっとした日用品やアウトドア用品、カートン売りの酒まで置いてあって何かと便利だ。しかし一番嬉しい点といえば、園芸用品が置いてあることだろう。スーパー側に面した屋外の植物コーナーは、脇を通り過ぎるだけでも目に優しい。
この日は天気もよく、スーパーにたどり着くまでの街路樹も黄葉が金のように輝いていた。外に出て良かった。引きこもりだから些細な変化がもたらす喜びは大きく感じられる。
どの秋色も綺麗だけれど、11月といえば私にとっては薔薇の季節である。
薔薇はこの世界の宝の一つだと思う。実は私の家から歩いて行ける範囲に薔薇園があり、その事実だけで心が安らぐ。しかし最後にその薔薇園に行ったのは半年も前のことだ。
気温が高く空は青い時期なのに、それでも食料の買い出し程度にしか外出しない自分がこの買い物の後でどこかに行けるだろうか。多分行けない。どんなに良いことがあると分かっていても、とにかく外出は大変だ。
だからホームセンターでしのごうと思った。薔薇欲を満たしたい。買い物袋はいつもよりやや軽かった。再開した筋トレの効果でそう感じただけかもしれないが、とにかく、帰り道のルート一本線に小さな輪っかをひとつ増やす程度なら足取りは軽い。
ホームセンターの庭コーナーの中に薔薇が集められた区画があるので、そのまわりをくるりと回ろうと進んだ。
一緒にいた親に話しかけられてレモンにも目を向ける。造花の飾りと本物を見比べる。店内BGMの知らないポップスがやけに響く。
20秒ほどの短い滞在で綺麗な薔薇がいくつも目に入った。しかし、体感したのは「少なくとも今秋の薔薇を一度は見る」という、最低限の実績を得た満足感でしかなかった。どうしてだろう。

 

色々と好きな花はあるけれども、中でも特別な気持ちを抱くのは派手で香り高い花だ。薔薇、芍薬、牡丹など。特にきっかけがあるでもないので、どうしてこう特別に思えるかは分からない。とにかく、花と対面するだけで不思議な異界に私一人だけ拐われるような気持ちになる。
胸がドキドキするし、唾液の分泌量が増えて涙が溢れてくる。多分恋だと思う。色んな種類が植えられているガーデンに行けば大体お気に入りの子が見つかる。可愛い花やセクシーな花がある。頭の中で架空の物語が勝手に展開されていき期待が高まる。性的な魅力を覚える――語弊はあるかもしれないが、こう表現してもいいくらいだ。

 

もしかしたら私は薔薇と向き合う時は一人じゃないといけないのかもしれない。極めて個人的な体験をするとき部外者がいては、(実際に頭の中を覗き見られるわけでもないが、)恥ずかしいし気が散る。ムードに合わないダサい曲も良くない。薔薇とは二人きりで会いたい。
帰宅後一人で珈琲を淹れる時にこう気が付いた。コーヒータイムという、自分の世界に浸る時間を作ったことで、別の脳内世界の存在を思い出したわけだ。ドリップ中の珈琲の泡の表面は油分で虹色に光っていて、焦げ茶の豆によく映える。
うっとりする光景に出会えるという共通点はあっても、珈琲は恋人ではないので家でも飲める。薔薇は妖精のように束の間の恋なので、家で育てようと思ったことはない。どの植物を育てても上手くいかない、いわゆる緑の指とは程遠い、茶色い指を持っているのでどのみち無理だ。すでに死ぬ運命にある切り花は遠慮なく飾りたがるが。
それでも薔薇の香りは薔薇園の中でこそ味わえるものだ。やはり電車を使って行ける場所の薔薇にだって会いに行くべきだ。

 

こうして薔薇園での夢のような体験を思い出していたら、引きこもりの重たい身体の存在を忘れてしまった。薔薇の恍惚はまさに身体的な体験だというのに、なんだか不思議だ。
ああでも、こうして「薔薇を愛でる悦びは自分だけのもの」といっても、やっぱり綺麗な花の綺麗さをうっとり他人に語ってみたい気もする。

 

少なくとも、このように他人に見せるための文章に記してみたことで、この翌日薔薇園に会いに行くことができた。

フェルト化した髪の毛を解く方法

私は現在髪の毛がふくらはぎくらいまで伸びています。最後に切ったのが7年くらい前。

特にトリートメントやヘアパックなどしてないどころか引きこもりゆえ風呂に何週間も入らないのがザラだったりします。毎日入ってた期間もありましたが…

私の髪の毛は割と太めのストレートです。子どもの頃は髪がまっすぐになろうとしてお団子ができなかったりしてましたが今では満遍なく痛んでるのでかんざしでまとめることも可能です。

以上の前提条件があるので他の絡まった髪の毛で困ってる人の参考になるかはわかりませんが、忘れないうちに書いておきます。

特に首回りはフェルトの塊みたいになりがちなので一月に一度くらいはほどくと楽だと思います。

 

大まかな流れとしては

  1. 大まかに広げて絡まった塊の密度を下げる
  2. 大きな塊に分割する
  3. 小さめの塊に分割する
  4. 下から髪をとかしていく
  5. 解かせない塊にあたった時はとにかく広げていく
  6. 4〜5の繰り返し

まず必要なものは大量の油です。オリーブオイルでやったこともありますがその時は手順のせいかもしれませんが成功しませんでした。髪の毛用のオイルがいいかもしれません。オイル配合のさらっとした液体だと余計に軋んだので、それなりにどろっとしたものがいいです。私は薬局やアマゾンで買ったDoveのオイルを使いました。

 ⑴ 大まかに広げて塊の密度を下げる

油を塊に垂らして、絡まりを引き離すように引っ張ります。この時は両手を大きなボールを掴むようにします。指が目の荒い櫛になります。この両手の櫛を指が交互に入れ違いになるように重ね、髪の毛の任意の位置に突き刺して両手を引き離して髪の毛をひっぱります。(絵で描けば一発なのですが最低な説明しか思い浮かびません。)

油は最初に全体に大量になじませるよりは、取り組んでいる部分にその都度つけるほうが効率的です。髪を引っ張る部分(指を差し込む部分)だけでなく、引っ張られて伸びる部分の摩擦を減らすイメージで油をしみこませましょう。

これを全体に施すとフェルトの塊が大きく広がります。絡まりがひどくない時はこの時点でそれなりにブラシも通るようになりますし、油も最小限ですみます。

 

⑵〜⑶ 塊に分解

まず上記のように髪の毛を引き離す作業を繰り返し、髪の毛を二つの大きな塊に分けます。そこからさらに小さい塊に分割していきます。

とにかく髪の引き離しがすんなりいきやすいところを見つけるのがポイントです。フェルトの塊を引っ張るうちに、そのまま引ききれて髪を引き離せるところまでいけるはずです。

油をさす場合は、切り離す分け目の部分周辺にさします。

 

⑷ 下から髪をとかしていく

毛先の方は比較的絡みにくいのでそこから櫛やブラシで梳かしていきます。つっかかるようなら無理に引っ張らないように。

(毛先が絡みにくいのは髪の毛が長いせいだと思います。毛先が首〜肩周辺だと寝返りなどに巻き込まれ摩擦に晒されやすく、そこが一番絡まりやすいのかもしれません…)

通常は根元から梳かしていくものですが、フェルト分解作業は根気と時間が必要です。モチベーションを保つために、指通りがいい部分というのを作っておきます。さらりと指が通る部分が全くない状態が長く続くと「めんどくさいから切ろうかな」とシフトしてしまいます。別にそれでもいいと思いますが、長くなりすぎて切るにも決意が必要になってきます…

引っかかった部分で強くひっぱると、せっかく密度を下げた絡まりの網目がきつくしまってしまうことがあるのでやめましょう。

すぐに解消できそうな引っかかりならその場で紐解いてあげるといいでしょう。それを繰り返していけばフェルトがいつのまにか消えています。

この時点ではあまり油は使わなくて大丈夫です。むしろ乾いた状態の方が楽な場合もあるので様子を見ましょう。

すぐに解消できない絡まりに対しては塊を分割することを意識します。

 

塊の分割〜小さい引っかかりや絡まりを解いていく…という作業を繰り返すと、いつのまにかフェルトがなくなっています。

ものすごく時間をかけても、一部頑固な塊が残っていたり、根元部分の絡まりをほぐせなくて頭皮からブラシを通せないままだったりします。

疲れていれば諦めて次の日続きに挑戦しましょう。

 

最後にベタベタな頭をシャンプーで洗います。綺麗に油や汚れを落とした後リンスします。べたついたままだと埃などが吸着しやすそうなので…

解消しきれなかった絡まりはシャンプー中にほどけることもあります。

そもそもフェルト化の大きな要因は風呂に入らないことで髪に汚れがついてそこに埃などがつくことかと思われます。

筆者は近頃反省して最低でも4日に一度ほどは髪の毛を洗うようになりました。めんどくさがってつけていなかったリンスもつけるようになりました。するとなんと、フェルト化にここ1ヶ月は悩まされることがなくなりました。

 

 

 

 

「飛んで火にいる夏の虫ってマジでいるんだ…」

この前fire pitのあるお宅にお邪魔したとき虫が火に飛んでった…

 

 

私もたいがい火に飛んでいく虫である。

話題が炎上するとかいうじゃない?

私が「考えておかなきゃいけないことだな」と思うことって結構炎上案件だったりする。

この「考えておかなきゃ」というのは、「他人事にしてはいけない」程度の意味であって、私は思考能力があまりないので考えてる感じがあまりしないかもしれないけど、そういうことです。考えたところで何が本当にいいかなんて誰にもわからないけど、それでも考えるしかないでしょう…炎上していなかったとしても、そこに辛い思いしてる人はいるはずだから…一番痛い思いしてる人は見えないままになっているなんてことも、炎上ではよくあることだし。

まあ私がいきなり大勢の知らない人の話題の的になったらそれ自体が燃えるようなストレスだと思うけども、何かを考えてそれを表明すること自体は臆したくないので…まじで火に入ったような状況に私がなったら多分ツイ消しするけど…

 

それにしても、都会っ子なので見たことなかったけど本当なのね。

2019年のどろろアニメでなぜか虫の妖怪が火事を起こしていたシーンがあったけど、火に飛び込んで炎を広げてしまったのは、喋れる妖怪といえども火に飛んで行ってしまうからなのね。

 

考えたところで何かがどうにかなるかはわからないし、考えてるフリで満足してるだけと自分で自分を批判することもあるけども。

少なくとも私は、「もしかしてこれを気にしてるの自分だけなのかな?」と思ってる時に同じものを見てる人がいると安心する。救われた気分になる。

どろろのアニメでも中盤で大事なことを考えすらしない百鬼丸からどろろが離れた場面があったじゃない…自分の中に答えはないし何か具体的なことをするつもりがなくとも、少なくとも一緒に考えてほしいっていうのはあるよね。

 

 

引きこもりが頭の中で色々巡らせても鬱や無気力が加速するだけでは?という問題は、また別の話にしよう。無職が生きてる実感を持てるのは社会について考えてる時くらいだったりするので…(精神衛生上よくないにしろそういうことってあるよね!)

アイヌ文化フェスティバル行ってきた

入場無料の太っ腹。

たまたまTwitterのプロモーションツイートが流れてきて知りました。
というかそれ以外で全く見かけなかったんだけど…
というか会場のきゅりあん(建物の名前?)に着いても一切案内がなくて、
「ほんとにあんのかなこのイベント?」
とか思ってたんだけど…せめて他のコンサートのポスターみたいにロビーやエレベーター裏にポスターはればいいのに…

会場は8階の大ホール。ハイパー構造が分かりにくい建物で、エレベーターも何種類かあって八階に直行しないエレベーターしか見当たらなかったんだけどまぁ今回はたまたま私が日本語読めたので無事にホールにたどりつけました。日本語わからないのに同行者なしで日本にわざわざ来る人って本当に中々いるもんじゃないと思いますよ。それでもたくさんいるんだから世界ってほんと広いなって。

イベント案内の載っている公式HPにすらきゅりあんのどこでやってるのか分かりませんでした。見落としてだだけなのか?
とりあえずイベント名「アイヌ文化フェスティバル」でツイート検索したら、フェスティバル関係者のツイートに「8階」と書いてあったのでそれを頼りに。

開場から間もなくだったようで他の参加者も「ここかな…?あ、ここだ」って素振りでした。

まだそこまで各体験に人が並んでるわけでもないのか。でもゴールデンカムイのパネルを撮るにはちょっと人通りがあるなと思う程度にはいる。パネルはいつでもいいのでまずアイヌの服を着てみる体験のところに並びました。

薄い外套のようなものを試着。慌ててカバンおいたりして脱ぎそびれたコートの上から羽織らせてもらったのでパツパツでした。写真をスタッフさんに取ってもらったところ、後ろ向きの時に「はい腕広げて~」と指示がありました。(なんでだ…?)近くで見て触れるってなかなかないな~と思いつつ、ただ見ても何か違いがわかるほど服飾関連の知識も感性も無いのでそのへんはもったいなかったのかな。でも鋭い観察眼無しでもとても綺麗だったよ。ていうか着心地よさそうなので普段着に欲しかった。これが、着物をバスローブに変えた欧米人の発想なのかな…?

試食コーナーは閑散としていたので「え、もしかして瞬殺?!」と思ったら違ってた。ふぅ。待ってる間に展示パネルの説明を読んだり、展示品を写真におさめたり、木彫りや刺繍の実演用ブースを見たり。着物の展示のところでは特にケースにいれるでもなく目の前に置いてあったので結構みんなぺたぺた触ってたんだけど、時折スタッフが注意していました。そういうのは言われないとわからないから最初から注意書きすればよいのではないかな。

結構本格的な絵本をフリー配布してました。まじかよ!太っ腹すぎる!セール品に群がるような空間がそこに。私もそそくさと頂戴して安心したものの、その次は絵本配布のテーブルの後ろにかかっている展示パネルが読みたくなる。でも人が多くて読めない。別の人が溜まりにくいところに置けばよかったのではと思いつつ後で戻ってから読みました。

後に配布開始した食品は芋団子のようなもの。ヨモギいりとジャガイモ入りの二種類があったようで、私はヨモギ入りをゲット。ホクホクとモチモチの中間みたいな感じでおいしかった。意外と脂っこくて、コンビニの食べ物とかにありそうな感じだった。昼ごはん食べずに開場から閉場の間いたので貴重な食糧となりました。二種類両方ゲットしようとしていた人の気配があってちょっとその辺の空気が凍ってました。

常時中央のTVで流していたのはアイヌ民謡や民話のアニメ。日本語字幕付き。もしやと思ってテレビの下に置いてあったDVDのパッケージのタイトルをYouTubeで調べてみたら同じアニメをいくつか発見できました。多分主催の団体の公式アカウントが投稿したやつかな?なんかロボアニメみたいなタッチの面白いアニメがあったから後で見てみる。

VRでバーチャル観光してみようみたいなのもあったけど長蛇の列だったので諦め。

アイヌ語ラジオ講座のサンプル音源と教材冊子があったのでペラペラ見ながら音声を再生してみる。ラジカセの使い方がよくわからない上に序盤の日本語での挨拶が長くて後ろに並ぶ人が気になりだしたので結局アイヌ語練習パートを聴く前に席を立ちました。番組を調べればリアタイでラジオ聴けるのかな?

そうこうしているうちに疲れてきたので、奥の舞台みたいなところに入ってみた。何か映像が流れていて、人々が観劇みたいに席に座っていた。映像はオシャレな観光PRビデオみたいなノリのPR映像でした。結構かっこいい映像だった。

英語ナレーションの映像が流れてたり、フリー冊子コーナーで英語の小冊子があったりしていたけど、そのほかが全て日本語で紹介されてるのに意味あるのかな?と思ったり。まぁ小~中規模のイベントだしそういうもんか?

そしてステージプログラムが始まる。校長先生の話みたいなやつから始まり、次にイベントの目玉と思われる、漫画ゴールデンカムイアイヌ語監修を務める教授の講演。話の内容は概ねメモをとったけど、どっちみち後でその辺の大部分をカバーする書籍が出てくるようなのでメモは打ち出す必要なかろう。どこまでがリアルでどこまでがギャグなのかをいくつか話していただけてよかったです。そしてアニカムのフチの声はアイヌ語ネイティブに近い人にやってほしかったな…という思いが一層強くなりました。

次のステージイベントは阿寒湖のコタンの人たちの楽器演奏、歌、舞踏、民謡?など。阿寒湖コタンは最大規模で、飲食店やお店の営業もしている唯一のコタンだみたいなこと言ってた。進行役のおじさんも人前でしゃべることに慣れていたように見受けられたので、確かに観光客の相手は慣れているのかなと思いました。

琴のようなものの弾き語りは民謡かな?プログラムパンフレットに日本語訳とカタカナでのアイヌ語表記があったので、それをわずかな明かりを頼りに目で追いながら聞いていました。途中声がとまったりフレーズを飛ばしている箇所がいくつかあって、アドリブとかなのかなーと思いました。カタカナだけだと実際の感覚ってよくわからないので、カタカナとあわせて声を聴くのとてもよかったです。

おじさんによると、アイヌの舞のほとんどは奉納舞踊だとか。でも娯楽舞踏もあるんだって。印象強かったのはお盆を投げ合う踊り。木彫りのお盆を女性二人が音楽にあわせて投げたり受け取ったり、投げなかったり。投げるフリをしてなげないのを数回繰り返すのがお約束のようで、その間は観客皆首が動いてましたね。感覚としてはゴールデンカムイ16巻の140pあたり(158話)みたいな感じ。「投げる!…あぁ…投げる!…あぁ…投げた!」みたいな。ちなみに最後の投げでは右側の人が落としてしまってお盆が欠けました。おじさんの〆の紹介によると、元々子供が家の道具を投げ合う遊びだったものが踊りになったんだとか。落としたら負けのゲームだそうです。ついでに言うとこのお盆、おそらくガラスケースに展示されていた木彫りのお盆と同じコンセプトの道具です、多分。そこのキャプションでは「[…]おみやげとしてたくさん作られました。アイヌの人たちの日常生活では使われていません。」と書いてありました。それってつまり売り物を投げ合って遊んでいたということかな?子供は恐ろしいことするよね…!落とすというオチもあり、結構インパクトありました。

口琴演奏では二人組が可愛い音、不思議な音、かっこいい音、を巧みに使い分けビブラートを奏でていました。ぼよよん。そのあとは先着順に入場配布されていた口琴をみんなで演奏しよう!というコーナーも。舞台上での説明の他、数名が客席に降りていったようですがもちろん広い会場ですので近くで見れたのはわずかでしょう。ほとんどの人は「説明早い!というかわからない!見えない!」とざわつきつつ紐をぴんぴん引っ張っていました。そして早速一般人を上にあげるコーナー。まず挙手して舞台に上ったのがおじさん。「ずいぶんと自信満々なおっさんきたよ~」と思っていたら司会のおじさんも似たようなこといっててワロタ。その男性は一度びよんと鳴らしたあとは成功せず。まぁ難しいしそんなすぐにできる人いないだろーという空気が漂う中、次は若めの大人の女性が挙手。若い人が積極的に出てきて司会のおじさんも喜ぶ。びよんびよんといきなり音を出し会場が盛り上がりました。そしてその後はさらに若い人が登場。元気なお子さんが舞台に上りほほえましくなったところで会場にとどろくビブラート!なにこれうますぎる?!びよよよよんびよよよよん……何度か違う音の出し方を試しては会場を沸かせるニューホープ。これは大物になるぞ…!大盛況となったのでした。

最後には檀上にあがりたい客おいで~みんなで輪になるよ~みたいな感じで輪になって踊るやつで〆。最初は恥ずかしいのかポツポツとしか人が来ず、でもだんだん人が増えて多分20~30人くらいは上にいったのかな?客席のみんなも踊ってネみたいなノリだったのでみんなで踊った…けど結局客席狭いし、大人がプリキュアの映画見に行っても思い切り手を振ることなどできないみたいになってました。楽しかったよ!(後ろの席の人たちがステージに上った一般人の服装などに言及しだしてついそちらの会話が気になって一般人のほうばかり見てしまった…あまり見ることのない衣装だからコタンの人の方を見たかったのだけども…ww)

最後は「またお会いしましょう」をアイヌ語で全員で言いながら幕が下りました。子供の叫び声や大人の遠慮がちだけど楽しかった気持ちを隠せないような和やかなハーモニーでした。ステージで横一列になってた人たちの手ぶり(おそらくさようならやありがとうの意味のジェスチャー)を真似してみたり。

コタングループの実演パートは全体的に手拍子もなんでもOK!とにかく楽しんでって!なノリだったのでわりと手拍子なども盛んだったけども私は音に集中したくて手拍子しませんでした…上から見て「反応薄いな~」とか思われてたらちょっと申し訳ないな。眩しくて見えないかな?

ステージプログラムが終わった時点でほぼ他の体験ブースも終わっていたのでとりあえず流しっぱなしのDVD見てました。

 

 

 

ちなみに、主な参加者は日本人の(和人かアイヌかは見た目ではわからないので…)中年~高齢者。あとそこそこの若者と、少し親子連れ。若者は私みたいなオタクのゴルカムファン風の雰囲気の人が多かった。というか見た目で日本人ではなさそうって感じの人は覚えてる限りではいなかったな。多分いたと思うけど。スタッフに長話をけしかける大人が割といたのを目撃し、(これ話しかけられる側はめんどくさそうだな~)とか思っていた。多分私が緊張していたから。(イベント自体はわりとのほほんなイベントでした)

私はエスニシティや人権や社会的圧力について繊細になる機会が多い人間なので、そういった視点で何か得られるものがあるかなと期待して来たわけです。ですが素人によるそういう姿勢をほぐしてエンタメに浸すイベントだったなという印象でした。(だって目で見たものからどうやって自分の抱える議題に繋げていくかなんて素人が考えてもよくわからないしね…)趣味で博物館めぐりする時と似た気持ちにさせてくれたわけです。でもこれでほんとにいいのかなぁ~?!って気分になって、むしゃくしゃしたので帰りにおやつかって帰った。

 

 

indigenous peopleと私

私は日本の義務教育を受けた期間が短かったこともあってか、アイヌの存在は中学生くらいまで知りませんでした。たしかテレビで俳優の昔話を取材する番組かなんかで、とある俳優の親か誰かが政治活動をしていただとか、学校で習った後に「お前アイヌだろ」とからかわれただとか、そういう話をしていたのを見て初めて知った気がする。

「そういえばロシアの東側はアジア人寄りの顔の人が住んでいるんだよな。北海道の先住民族と関係があるのかな?」と思っていたのを覚えています。(そういえば幼少期はロシアにヨーロッパ系の人が住んでることは知らなかったな…)

そして多分アイヌを認識していた頃にカナダにも興味を抱いていた気がする。そして少なくともアメリカ大陸とオーストラリア大陸先住民族と現在マジョリティである層が違う民族で構成されていることは認識していたはず。

カナダに住むようになってから、先住民族の人が抱えさせられている問題は自分の勉強する分野と切って離せないトピックだとずっと認識していた。カナダの先住民族の人たちが抱いている社会の問題点は、おそらく日本の先住民族の人たちが抱えるものと少し似ているのだと思う。でも本当に詳しく知ろうとはなかなかしなかった。「人として大事なこと」に関わることだとしても、自分自身の問題とは別であると認識していたから。興味関心を持つか持たないかは私が決めていいことだと思っていたから。

心身を病んでから、今までごまかしたり見ぬふりして心地よく生きていた世界を違う目で見るようになった。これこそ精神不安定の人の言葉っぽいけど、もう現実の不都合な側面を覆い隠すごまかしが効かなくなったような、目が開かれたような。「過去の自分はあんなことにとらわれていたりあんなことを信じていたから、あんなことを言っていたんだな。悪いことしたな」とよくわかった。あるいは、「自分はあんなことを信じさせられていたな。迎合してなんとか保とうとしていたのかな。可哀想だな」とも思った。

「せめて世界がより良くなったらいいな。そういう世界にしていかないとな」と思い始めた。今でもそう思ってるけど。でももちろん目が多少開かれたところで、モヤモヤがかかりっぱなし。その奥に恐ろしいものがあることはわかっても、少なくともそれが今すぐ自分に襲い掛かるとは思っていない。モヤの切れ目に垣間見て恐ろしくなって死にたくなる程度で。

そういう残酷性というか、傲慢さというか、自分のそういったところがすごく怖くなった。私が普段マジョリティの力を糾弾していても、マジョリティかどうかは相対的なもので切り口によって変わるものだから、違う側面で私がマジョリティに立った時に私が普段恐れたり怒りを抱いているものを簡単に他人に向けてしまうのが怖かった。私はとある場面において「ああ、彼らは特権を持っていることを疑いもせず生きているのか」と絶望する時、別の誰かが別の場面で同じことを思ってる。

「構造があるな」と薄らぼんやり認識していた分これがまた怖い。構造があることを分かっていながら私は何にもしてなかったから、それがまた私も何にもされないでなかったことにされる側になる証拠になるかもしれない。

自分がモヤの中で、モヤの一部として、足を踏み入れては何かをぐちゃぐちゃに壊すのが怖い。人として大事にしたいものをどう大事にしたらいいのかわからなくて、でも自分で探さなきゃいけないのが不安で怖くてたまらない。

アイヌ文化の催し物に一般参加してみた。展示されてるのは面白くて興味深くてかっこ良く綺麗で可愛らしいものばかりだった。それを見て「かっこよくてもかっこよくなくても存在する文化なのに、まるでかっこいいから価値があるといわんばかりに消費するだけでいいのか?(かっこいいので楽しませてもらいますけど…)”知ってもらいたい”なんて主催側の人は言ってるけど、我々参加者が知ることで初めて叶う何かがあるとしたら(あるとすればおそらくアイヌ語の国語としての”正当性”だとか、アイヌ文化は無かったことにはなっていないということだとか、差別問題の解決だとか)、それを今すぐ叶えられないものとしたのは我々が一部として存在しているこの社会じゃん…」みたいなことを考えて悲しくなってしまった。

 

ただ、今の自分の気持ちすこし身に覚えがある。

ジェンダーについて研究する友達を見て、「そっか~実感としては自分の根源に直接かかわるようなトピックではないと思ってるけど、確かに社会的には大事な話だよね」なんてスタンスで話聞いてた。でもなんだ、実は忘れていただけでずっと不都合を強いられていたとわかって絶望した。見ないふりしてたものを見てしまった以上もう見えないふりはできないから…

今の私はレイシャルアイデンティティはあまり大事に思っていないと思ってるんだろう。でも出自や故郷に関してはかなりセンシティブに思っている。TCKという言葉を聞いたときの安堵はまだ新しい。今に、”他人の”問題もすぐに自分の問題となって返ってくる気がする。あるいは、自分も最初から当事者だったと思い出す。今身を置く社会が穴だらけなんて思いたくなくても、目を本当にそむけてしまったら本当の安心感は得られなくなってしまう…

楽しい楽しい無計画旅行1

人にレンタカーぐるぐる旅行連れてってもらって、その後一人で旅行を続行した。

二人旅でも色々あったけどそれはその人と思い出話すれば反復としてはそれで済むし、一人旅の方を残しておく。まぁ後で書くかも…

一人旅の目的

(少しだけ博多と)香川と兵庫の一人旅。目的としては、香川と兵庫にいる知人達に会いに行くというもの。

あと、旅などで新しい環境にひたることで、生きる意義を探すという今回の数か月の一時帰国の目的につながればいいなと。

普通に一人でぶらぶらするの好きだし、そのためにも。

目的ではなく旅をより豊かにするためのオプションだけど、聖地巡礼という楽しみもあった。

コンセプトは「行き当たりばったり」

無計画さからくるハラハラ感、とてもストレスフル。でもそれが楽しいと思えるタイミングもあった。

やばいと思ったのは特に宿選びや宿への移動・乗り換え。というより、値段や手間でルートを吟味している最中に消費する時間を意識すると「なんでこんなに悩んで決めようとしてるんだろう。決める時間のほうがもったいないな。いや、時間がたくさんあったところで何ができるんだろう。何したら意味がある旅になるんだろう」などという思念が湧いてくる。そのせいでドッと疲れる。

途中からは「ルート選びも旅のだいご味!」と思えるようになったし、うんざりしながら値段比較してたのも今となってはよい思い出です。(辛い体験は永遠に残るとかいう感覚を乗り越えられたかもしれない…)

旅の効果

旅しなくても知ってたことかもしれないけど旅のおかげで新たに認識したり、改めて実感することがたくさんあった。

何より、また会う約束をした人二人に会えた。

観光名所をたくさん巡ったわけではないけど、「これいいな」という気持ちを自分で発見できた場所に自分の力でたどりつけたのが良かった。

惨めな気持ちもたくさん味わった。普段と違う惨めさで、趣があった。

 

 

 

ちゃんと仕事した

結構…褒められたよ…!

与えられた役割はちゃんとこなしたいと思うほうなので…!

まぁその役割が明確であるかあるいは私の想像がつく範囲内で、なおかつ「いや、なんでそんなこと求められなきゃいけないの?」とならないことなら真面目になりやすい。

苦手なのは例えば、ダメと最初に言われてないのにいきなり「そんなことしちゃダメだよ」とか言われることですね。かなり前のバイトではみんな仕事中の携帯に寛容だったけど業務用に携帯で調べものしてた私に怒ってくる人いて参ったな…

 

久しぶりに労働をして気が付いたのは、「コミュニティ内での役割をこなす快感ややりがいがある」ということですね。ちっちゃくても仕事場というコミュニティですからね。そしてみんな権限が大体同じ(少なくとも雇われている身という点にて同程度)。「みんな(職場の人、周りの職場の人、客も)大変な中、みんなの苦労を思いやり、自分も自分のできることをする」というやりがいがある。自分にできる気遣いをできたという実感が持てる。

でも無意味なルールによる疲れがたまる。ずっと立たなきゃいけないわけでもないのに立ちっぱなしで接客しなきゃいけない。そもそも売り場に椅子がない。なんでそんな設計なんだろう。少しでも体力温存できたらより質の良い業務ができるしポカミスも減るのに。

そもそもたくさん同業の会社があるのに、この会社が存在する意味はあるのか?とか考えたり。意味があるから存在するわけではないのに、社会的存在意義を自分に見出せない私はつい他にも社会的意義を求めようとしてしまう。一日の終わりの疲れにもやりがいからくる心地よさがあるが、やがて「本当にこれでいいのか?」という疑いが心地よさを上回ってくる。それでこれからの人生への不安が覆ってくる。それでもとにかく疲れているので不安にフォーカスするよりも今をやり過ごすしかなくて、ただご飯を義務的に食べて寝るしかないなと諦める。

 

もうその短期バイトも終わって疲れも割と癒えた。仕事中に怪我したところも治った。とりあえず気づいたことがあったのでよかったし、楽しかったよ。人がたくさんいて、みんな頑張って生きてて、でも頑張ってるなんて中々想像できないんだよなって思ったりもした。

私自身で何かを作らないといけないなとも、思った。