暴力的な白の中、ホカホカ汁物

TCKによる元・留学ブログ。夢を手放して色んなことをリハビリがてらやりたいな

indigenous peopleと私

私は日本の義務教育を受けた期間が短かったこともあってか、アイヌの存在は中学生くらいまで知りませんでした。たしかテレビで俳優の昔話を取材する番組かなんかで、とある俳優の親か誰かが政治活動をしていただとか、学校で習った後に「お前アイヌだろ」とからかわれただとか、そういう話をしていたのを見て初めて知った気がする。

「そういえばロシアの東側はアジア人寄りの顔の人が住んでいるんだよな。北海道の先住民族と関係があるのかな?」と思っていたのを覚えています。(そういえば幼少期はロシアにヨーロッパ系の人が住んでることは知らなかったな…)

そして多分アイヌを認識していた頃にカナダにも興味を抱いていた気がする。そして少なくともアメリカ大陸とオーストラリア大陸先住民族と現在マジョリティである層が違う民族で構成されていることは認識していたはず。

カナダに住むようになってから、先住民族の人が抱えさせられている問題は自分の勉強する分野と切って離せないトピックだとずっと認識していた。カナダの先住民族の人たちが抱いている社会の問題点は、おそらく日本の先住民族の人たちが抱えるものと少し似ているのだと思う。でも本当に詳しく知ろうとはなかなかしなかった。「人として大事なこと」に関わることだとしても、自分自身の問題とは別であると認識していたから。興味関心を持つか持たないかは私が決めていいことだと思っていたから。

心身を病んでから、今までごまかしたり見ぬふりして心地よく生きていた世界を違う目で見るようになった。これこそ精神不安定の人の言葉っぽいけど、もう現実の不都合な側面を覆い隠すごまかしが効かなくなったような、目が開かれたような。「過去の自分はあんなことにとらわれていたりあんなことを信じていたから、あんなことを言っていたんだな。悪いことしたな」とよくわかった。あるいは、「自分はあんなことを信じさせられていたな。迎合してなんとか保とうとしていたのかな。可哀想だな」とも思った。

「せめて世界がより良くなったらいいな。そういう世界にしていかないとな」と思い始めた。今でもそう思ってるけど。でももちろん目が多少開かれたところで、モヤモヤがかかりっぱなし。その奥に恐ろしいものがあることはわかっても、少なくともそれが今すぐ自分に襲い掛かるとは思っていない。モヤの切れ目に垣間見て恐ろしくなって死にたくなる程度で。

そういう残酷性というか、傲慢さというか、自分のそういったところがすごく怖くなった。私が普段マジョリティの力を糾弾していても、マジョリティかどうかは相対的なもので切り口によって変わるものだから、違う側面で私がマジョリティに立った時に私が普段恐れたり怒りを抱いているものを簡単に他人に向けてしまうのが怖かった。私はとある場面において「ああ、彼らは特権を持っていることを疑いもせず生きているのか」と絶望する時、別の誰かが別の場面で同じことを思ってる。

「構造があるな」と薄らぼんやり認識していた分これがまた怖い。構造があることを分かっていながら私は何にもしてなかったから、それがまた私も何にもされないでなかったことにされる側になる証拠になるかもしれない。

自分がモヤの中で、モヤの一部として、足を踏み入れては何かをぐちゃぐちゃに壊すのが怖い。人として大事にしたいものをどう大事にしたらいいのかわからなくて、でも自分で探さなきゃいけないのが不安で怖くてたまらない。

アイヌ文化の催し物に一般参加してみた。展示されてるのは面白くて興味深くてかっこ良く綺麗で可愛らしいものばかりだった。それを見て「かっこよくてもかっこよくなくても存在する文化なのに、まるでかっこいいから価値があるといわんばかりに消費するだけでいいのか?(かっこいいので楽しませてもらいますけど…)”知ってもらいたい”なんて主催側の人は言ってるけど、我々参加者が知ることで初めて叶う何かがあるとしたら(あるとすればおそらくアイヌ語の国語としての”正当性”だとか、アイヌ文化は無かったことにはなっていないということだとか、差別問題の解決だとか)、それを今すぐ叶えられないものとしたのは我々が一部として存在しているこの社会じゃん…」みたいなことを考えて悲しくなってしまった。

 

ただ、今の自分の気持ちすこし身に覚えがある。

ジェンダーについて研究する友達を見て、「そっか~実感としては自分の根源に直接かかわるようなトピックではないと思ってるけど、確かに社会的には大事な話だよね」なんてスタンスで話聞いてた。でもなんだ、実は忘れていただけでずっと不都合を強いられていたとわかって絶望した。見ないふりしてたものを見てしまった以上もう見えないふりはできないから…

今の私はレイシャルアイデンティティはあまり大事に思っていないと思ってるんだろう。でも出自や故郷に関してはかなりセンシティブに思っている。TCKという言葉を聞いたときの安堵はまだ新しい。今に、”他人の”問題もすぐに自分の問題となって返ってくる気がする。あるいは、自分も最初から当事者だったと思い出す。今身を置く社会が穴だらけなんて思いたくなくても、目を本当にそむけてしまったら本当の安心感は得られなくなってしまう…