暴力的な白の中、ホカホカ汁物

TCKによる元・留学ブログ。夢を手放して色んなことをリハビリがてらやりたいな

元気になると不安が再発

抜け出せると思うと枷の存在を思い出す。

何年前からかもわからないけど、ある頃に心身の調子を崩してストレートな道から外れることとなった。

ストレートがなにくそ!と思って、あらゆる道とそれらの分かれ目を肯定しようとしても、道の険しさだか、足枷の重さだかで気が滅入る。

 

毎日何かできてる。生きてるだけでいいもーんと思って休んでいたころに比べれば躍進していると思う。

まぁ、何かできてる自分に前の時期を「何もしてなかった時期」と認めるというわけではなく(確かに、何もしてなかったけど、否定的に認識するわけではないということ)。だって必要な時期だったし。私は常にその時できる最大限の努力をして生きているので。ある時にしなかったことは、その時の自分にはできなかったこと。後悔なんかしてたらキリがないもん。

 

「あ、できてる!できてるよ!これから、きっとなりたい自分になれるんだよ」

毎日何かをしていると、そう思えてくる、それはいい兆しだけども…。私まだ、自分が何になりたいのかもよくわかってないんだよね。早くやりたいことリスト書かなきゃ。まだリストは書ききれてないけど、書くとしたら絶対書くであろう項目の実現に必要なアクションは今ちゃんと取れてる。やりたいことリストを書き出すとしたら、「自分が文章で表現したことが他人の心のどこかを刺激するものとなってほしい」「自分の心の気持ちいい表現を絵で成したものを人に認められたい」「素敵だと思う格好を自分もする」「食事や睡眠などの体の維持に必要な行動を心地の良いキラキラしたものにする」「欲しいものを自分で作る」とかかなー。あと90個くらいは書き出さないと。

やりたいものを成すのに必要な最低限のステップをポツポツとっている:例えば人に見せる用の文章を公開する(はてなブログだけじゃなくて、Mediumというプラットフォームでもアカウントを作ってみたり、Twitterで鍵なしでツイート続けたり)、絵を描いて公開する(FBなどにも載せる)、出かける時は可愛い恰好を楽しむ、料理や盛り付けを楽しみつつ味わってご飯を食べる、食べられる植物を育てる、など。

これら自体はいい兆し、ただ、やはり自分を労わりつつ挑戦していく道は複雑なものだ。

 

行動の末に味わうのって色んなことができるようになった達成感だけじゃない。「ああ、こんなことすら前は難しかったな」という切ない追憶、これはまぁどちらかというとポジティブな感情だけど。ネガティブな感情だと、パブリックに公開することで得られる知らない人や知ってる人からの反応。否定的な反応はもちろん、肯定的な反応ですら怖い。まだ、novice以上に思われたくない。なんで皆私のことが見えているんだろう。他にも、とにかくしんどい。体力のなさを実感するとともに、精神力が削られる。どこから出てるのかもわからないけど。

そしてタイトルに戻ると、元気になったところで、元気ないときに自己防衛で見ないようにしていたものが再び襲ってくる。将来への不安、自分の道の先がどこに続くかの見通しを立てようとしてしまう。先を見ると、準備不足を思い知らされる。

だから、これからは足元だけを見ながら足を動かす段階に入りたい。これまでに、脚が動けば動いて動かなければそれでもよかった段階、そこから足を動かしながら前をチラ見する段階まで経由したのだから。問題が起こったら、その都度対応する。また足が止まっても別にいいけど、足を動かし動かして足枷に負けない。足枷と相談する。

 

よく、回復期が危ないと云う。完全に治ることはないと思う。治る・元に戻るんじゃなくて、新しくなっていくんだから。でもそれは調子よく続けていても同様のことで、変わらないことなんて無いので。

 

ちなみに、はてなブログ(ここ)は体裁としては自分用の文章…と思ったほうが楽だからね。
そして、外界に文章を送り出すという意識で書いたものはMediumに。↓

是非読んでほしい。後で修正しなきゃ…

medium.com

 

これ書いてる途中で「やっぱり頑張る!」って気持ちになったんだけど、多分文章を紡ぐというカウンセリング効果と、タイピングのまるでピアノをフリースタイルで楽しむようなリズムと、聞いてる音楽のおかげだと思う。

こういう予測できないところが表現の楽しみだよね。絵もかいてるうちに路線変わったりするし