前回のブログの時は、どん底モードからの復帰の明確なラインをcross overした記録が文章になってて中々面白いと読み返して思った。
今は前向きに生きててすごい。
あれから私は無心で生きることにした。
せっせと手を動かしたりしてる間のことは後になったらアッという間なのだ。
人生がめんどくさすぎるけど死ぬ気は今のところないので、生きること前提に話を進める。
何もかもを諦めて自棄的に過ごすと、ぼーっとして過ごすよりもっと辛いのだ。痛みや苦しみは紛らわせたほうがいい。初動をかけるのはとても面倒だけど、最初からぼーっとしていれば多分初動の辛さも感じないはず
ここ数日はずっと午前5時頃に起き上がっている。まだ昼夜逆転を脱してから4~5日しか経ってないので目が覚めるのはもっと早いけれども。
意識的に食事での咀嚼回数を増やしている。怠ると本当にあとが辛い。
可愛い服を着て過ごしている。何してても気分が華やぐ。
掃除をする。体だけ動かして頭は何も考えないようにするための典型例。とはいえやはり考え事はしてしまうけれども、少なくとも作業が終わると考え事の余韻が残らずに済むので良い。
最近までかなり体調を崩していたので、色んなことができなくなっていた。起きているだけでも疲れるのにこれほどやるのは正直しんどいが、何もしないとただしんどいだけなので今はこれでいい。
できないことが減っているのが実感できるので感動的だ。
植物達に水やりができるようになった。色んなものに可愛いと思えるようになった。食事内容を意識するようになったし三食食べれるようになった。小説が読めるようになった。
寝込んでる間はあらゆるものへの興味関心が失せていたし、身の回りのことを意識できないほどに、頭の中の会議内容は常に私が生きてる世界からかけ離れていた(生と死とかそういうレベルのこと考えてた)。苦痛を和らげるためのあらゆる方法を検索するものの実行できないでいた。「わかってるよ!」と泣きながらやはりできなかった。余計なことをする余裕が体になかったのもあるけれど、頭の無意識の領域のほとんどがいっぱいいっぱいで、新しいことを実行するためのキャパシティがなかった気がする。少し回復したときに栄養を再び取り始めて、更なる回復に向かっていった。
「わかってるけどできない」というのはずっと前からあるし、たぶんこれからもずっとあると思う。
今いろんなことができるようになったのは、「わからないようにしながら終わらせる」をずっとしているからかもしれない。目に入れたくもないけど自分で始末しなきゃいけないものを無理やり見ないようにして無理やりぼーっとしてる風にリラックスしてやり遂げるように。
ぼーっと無心でいるようにしても、実際は脳内はあらゆる思考がぽんぽんわいてくる。ただそれを大事にとらえないように、ぼーっとする。ただ、「あれしたいな」とふとわいてくるspontaneity自体は大事なものと決めているので、たまにすぐに実行に移したりする。ぼーっと半自動的に手が実行に移すので、これまで何したかはあまり覚えてない。朝イチで床にモップかけたのは多分その気まぐれによるものだけど。
「よ~しやるぞ!」「う~んほんとは嫌だけどーいやだけどー!!!」とかいう心の葛藤や感情を消費せずにすむので、結構楽なのだ。
「わかってるよー!(やらない)」みたいな、頭では効能がわかってるはずの生活術をさらっと実行にうつしたときの副次的作用を体感する機会も増える。さっきはなんとなく机の上を片づけたら、文章を書く気になったので今書いてる。
昼間ずっと起きて何かしてるのは、精神的な苦痛を味わわないようにするためだけでなく、肉体的にも痛いのから自分を遠ざけるためである。うっかり横になると逆に痛むし、うっかり昼寝でもすればまた昼夜逆転に戻ってしまう。昼夜逆転中は睡眠時間を確保しててもなぜか動悸がひどい。
今は痛みがまだ残ってるから「これ以上はも~いや!」と体が夜寝て昼活動するサイクルを維持してくれているのかもしれない。体がこの痛みを忘れはじめたら、また悪循環サイクルに入るかもしれない。