暴力的な白の中、ホカホカ汁物

TCKによる元・留学ブログ。夢を手放して色んなことをリハビリがてらやりたいな

無気力無職が「あっ現実だ…なんとかしよう」と思えるようになった要素いくつか

恵まれた環境におかれつつも心身がぽろぽろになって在学中からすでに無職ニートみたいな感じだった私です。

現在、カナダで居候したり日本の実家でゴロゴロを半々みたいな人生になっています。

「どこ行ってもどうせ人生に悲観してて何もかもどうでもよくて何にもなんないんだろうなー」と思っていたのですが、最近はそうでもないっぽいので備忘録に書いておきます。

精神と行動の変化

  • 何もしたくない(たくさん寝る)→何かから逃れられるという期待(気晴らしのための活動量が増える)
  • どうせ何もできない(働かない)→気晴らしに取り組むことはできているので次の行動にも移せる(次の気晴らしのために働くことを決めた)
  • ただでさえわずかしかない力をどうせ汚くなるものに使いたくない(家事をしない)→行動にポジティブな意味を見出しやすくなった(家事に前より積極的になる)
  • 体や気分の状態を変えることをするのが疲れる(風呂、外出を怠るなど)→変化への心理的ハードルが下がる(温度差を前より気にしない、作業開始しやすいなど)
  • 何もかもどうでもいい(勉強、読書、鍛錬などをしない)→ちょっとした達成感に目を向けるようになる(こまめに筋トレするなど)

 

ここから成功への花道だぜ!というわけにはいきませんが、少なくとも気分は悪くないし健康的に暮らせています。

おそらく要因は

誰かの役に立つとおもって書いてるわけではないのでかなり個人的な要素ですが…

期間限定だから

これからずっとここにいると思うと多分気が滅入るけど(未来が確定するのが苦手)、「〇月までだし、せっかくだから頑張ろう!」と思うことができている。

ダメでもともとだし、日雇いでも働けたら私スゴイ、と思えている。こんなことしても自立できないだろうと思うようなことから始めないと多分自立できないよね。

期間限定の現実ならまだ頑張る気になれるのかも…

My presence is a present と思えている

うちは家族仲が割といいので、ニートにしてはのびのびと暮らせています。居候の時は「どうせ追い出されるんだ~」と悲観的になって硬直していた… 

ずっと誰かがいる

家族が家にずっといる。私も基本的に用事がないと家にいる。そして家も狭いので大体近くにいる。

自分を好意的に見てくれる可能性の高い人に見られていると思うと、ちょっと家事を頑張る気にもなる。

誰にも見られてない時間はだらけてしまうことが多い

一人で好きなところに行けるインフラ

カナダでは車も持ってないし時間もかかるしで、登山なんてめったに行けませんでしたし割と常に他人に頼っていました。日本では山に行くのもカナダほど難易度が高くなく、また電車で一つ二つ隣の駅で降りるだけでも違う街に行けます。異世界に行きやすく帰ってきやすいという感覚。(受かった大学のどちらに行こうか迷った時、学費が安く街もそこまで都会ではないところに決めたんですが…案外地方はあまり向いていないのか?)

ともかく、どこかに行くのに人に頼らなきゃいけないってストレスですよ。なるべく人に頭下げたくない。

「どこかに行く」の選択肢が多い

イベントが何かと多く、山や海へのアクセスも悪くない。数時間移動すれば全く違う地元色の場所に足を踏み入れることができる。

自分の中で悪循環思考回路が出来上がってる人間に必要なものは、内なる回路から意識を引きはがすような刺激。「わー花だー」「せっかく美術館に来たのでたくさん吸収しよう」「この山道を進むのみ」 体を動かし五感をフルに使わないともったいない!そんな場に赴けば、脳内の悪癖から遠ざかる。使われない回路はだんだん優先順位が下がるので、無意識に湧き出る思考もネガティブ味が薄れてくる。

私は大体自分のことを見すぎなのです。現実逃避して自分を見ないようにしてても結局、自分を見ること自体はやめていない。視界を遮っているだけのようなもの。自分を見るのではなく、自分と並んで何かを見たいんだよなぁ。

家の床が綺麗

カナダの家では土足で中に入りはしないものの床はフローリングで埃がすぐ目に付くし家事を怠るしであまり座ったり横になったりする場所がなかった。つまり、寝るような筋トレをこなすには筋トレの決断をして、「よっこらしょ」と一息入れて、ヨガマットを敷いて、スリッパ脱いで上がって、という手順を踏む必要があった。めんどくさすぎる

今いる日本の家は毎日掃除機かけてるので綺麗。そのまま寝転がれる。そんなに変わらないだろうと思っていたけど、1、2ステップの差は大きい。レンジで30秒チンしている間にいきなり床にふせてプランクできるもん。レンジ使う次いでなら自分で携帯のタイマーセットする必要もないもんね。スクワットやかかと上げはカナダでもよくしてたけど、私が知ってる立ってできる簡単な筋トレがその二つしかないとやはり飽きる。

 

そもそも「なんとかしよう」とは

いやあのね、私めちゃくちゃ恵まれてるよね!自分の状況や人生を思い返すとね、というかこの記事読むだけでもね、よくわかる。でもこんなに恵まれててもそれでも生きる気力がなくなっちゃうくらい、心身を削る要因というのは日常にあふれている。

 

(むしろ私からすれば人は生きる気力がないのが基準なので、ラッキー要素の有無は生きる気力に直結はしないと思ってるよ)(私は多分基準値を上回る気力を初心者ボーナスで持っていた。でも気力が基準値に戻っていった。社会はボーナスブーストを保ったままの人たちが多いので社会の方はそちらを基準にしているようだ。人と社会は違う…)…みたいな

 

私は好影響のある要素を今の範囲内から見つけ出すことができているというだけで。そしてこの「いいものをつかみ取る/認識する」力も何らかの要素に影響されて得たものである。

要するに、自分で自分のことコントロールすることは本当はできないんだなって。

「自分は落ち込みそうな時はプリンを食べれば気分が良くなる」と分かっていればそうすればいいけど、そうしてもやっぱりだめな時があっても自分だけのせいではない。そして、その対処法を思い出せてなおかつ実行できそうならば、そんな状態に自分を持って行けただけでスゴイよね。あるいは、対処しようという気になる程度には生きる気力を誰かに何かにもたらされているのもスゴイ。

周りがあるから自分があるんだ感謝だなーと思うことで気分がよくなるのならそう思えばよくて、こんな自分スゴイな—と思うことで気分がよくなるならそう思えばいい。落ち込んだことを周りのせいにしちゃうのも、もしかしたら至極当たり前で仕方のないことかもしれない。本当はどれでもいいかもしれないし、選んでるわけではないかもしれない。

私はやりたいことが何かはまだ分からないけど、何かをしたくて、何らかの形で世界をよくしたいなーと思う。そういう方向性で「なんとかしよう」と少しは思えて少しは行動に移せているので気分がいい。世界をよくする前に自分をよくすることは少しはできている。今は私すごいなって思うし、それが気持ちいい。気持ちよくなる要素を備忘録に書いてみた。今度落ち込んだ時にこれくらいの要素でまた持ち直せればいいなと思うけど、「何書いてんだコイツーー!(# ゚Д゚)」と思うんならそれも仕方がない…