暴力的な白の中、ホカホカ汁物

TCKによる元・留学ブログ。夢を手放して色んなことをリハビリがてらやりたいな

無気力無職が「あっ現実だ…なんとかしよう」と思えるようになった要素いくつか

恵まれた環境におかれつつも心身がぽろぽろになって在学中からすでに無職ニートみたいな感じだった私です。

現在、カナダで居候したり日本の実家でゴロゴロを半々みたいな人生になっています。

「どこ行ってもどうせ人生に悲観してて何もかもどうでもよくて何にもなんないんだろうなー」と思っていたのですが、最近はそうでもないっぽいので備忘録に書いておきます。

精神と行動の変化

  • 何もしたくない(たくさん寝る)→何かから逃れられるという期待(気晴らしのための活動量が増える)
  • どうせ何もできない(働かない)→気晴らしに取り組むことはできているので次の行動にも移せる(次の気晴らしのために働くことを決めた)
  • ただでさえわずかしかない力をどうせ汚くなるものに使いたくない(家事をしない)→行動にポジティブな意味を見出しやすくなった(家事に前より積極的になる)
  • 体や気分の状態を変えることをするのが疲れる(風呂、外出を怠るなど)→変化への心理的ハードルが下がる(温度差を前より気にしない、作業開始しやすいなど)
  • 何もかもどうでもいい(勉強、読書、鍛錬などをしない)→ちょっとした達成感に目を向けるようになる(こまめに筋トレするなど)

 

ここから成功への花道だぜ!というわけにはいきませんが、少なくとも気分は悪くないし健康的に暮らせています。

おそらく要因は

誰かの役に立つとおもって書いてるわけではないのでかなり個人的な要素ですが…

期間限定だから

これからずっとここにいると思うと多分気が滅入るけど(未来が確定するのが苦手)、「〇月までだし、せっかくだから頑張ろう!」と思うことができている。

ダメでもともとだし、日雇いでも働けたら私スゴイ、と思えている。こんなことしても自立できないだろうと思うようなことから始めないと多分自立できないよね。

期間限定の現実ならまだ頑張る気になれるのかも…

My presence is a present と思えている

うちは家族仲が割といいので、ニートにしてはのびのびと暮らせています。居候の時は「どうせ追い出されるんだ~」と悲観的になって硬直していた… 

ずっと誰かがいる

家族が家にずっといる。私も基本的に用事がないと家にいる。そして家も狭いので大体近くにいる。

自分を好意的に見てくれる可能性の高い人に見られていると思うと、ちょっと家事を頑張る気にもなる。

誰にも見られてない時間はだらけてしまうことが多い

一人で好きなところに行けるインフラ

カナダでは車も持ってないし時間もかかるしで、登山なんてめったに行けませんでしたし割と常に他人に頼っていました。日本では山に行くのもカナダほど難易度が高くなく、また電車で一つ二つ隣の駅で降りるだけでも違う街に行けます。異世界に行きやすく帰ってきやすいという感覚。(受かった大学のどちらに行こうか迷った時、学費が安く街もそこまで都会ではないところに決めたんですが…案外地方はあまり向いていないのか?)

ともかく、どこかに行くのに人に頼らなきゃいけないってストレスですよ。なるべく人に頭下げたくない。

「どこかに行く」の選択肢が多い

イベントが何かと多く、山や海へのアクセスも悪くない。数時間移動すれば全く違う地元色の場所に足を踏み入れることができる。

自分の中で悪循環思考回路が出来上がってる人間に必要なものは、内なる回路から意識を引きはがすような刺激。「わー花だー」「せっかく美術館に来たのでたくさん吸収しよう」「この山道を進むのみ」 体を動かし五感をフルに使わないともったいない!そんな場に赴けば、脳内の悪癖から遠ざかる。使われない回路はだんだん優先順位が下がるので、無意識に湧き出る思考もネガティブ味が薄れてくる。

私は大体自分のことを見すぎなのです。現実逃避して自分を見ないようにしてても結局、自分を見ること自体はやめていない。視界を遮っているだけのようなもの。自分を見るのではなく、自分と並んで何かを見たいんだよなぁ。

家の床が綺麗

カナダの家では土足で中に入りはしないものの床はフローリングで埃がすぐ目に付くし家事を怠るしであまり座ったり横になったりする場所がなかった。つまり、寝るような筋トレをこなすには筋トレの決断をして、「よっこらしょ」と一息入れて、ヨガマットを敷いて、スリッパ脱いで上がって、という手順を踏む必要があった。めんどくさすぎる

今いる日本の家は毎日掃除機かけてるので綺麗。そのまま寝転がれる。そんなに変わらないだろうと思っていたけど、1、2ステップの差は大きい。レンジで30秒チンしている間にいきなり床にふせてプランクできるもん。レンジ使う次いでなら自分で携帯のタイマーセットする必要もないもんね。スクワットやかかと上げはカナダでもよくしてたけど、私が知ってる立ってできる簡単な筋トレがその二つしかないとやはり飽きる。

 

そもそも「なんとかしよう」とは

いやあのね、私めちゃくちゃ恵まれてるよね!自分の状況や人生を思い返すとね、というかこの記事読むだけでもね、よくわかる。でもこんなに恵まれててもそれでも生きる気力がなくなっちゃうくらい、心身を削る要因というのは日常にあふれている。

 

(むしろ私からすれば人は生きる気力がないのが基準なので、ラッキー要素の有無は生きる気力に直結はしないと思ってるよ)(私は多分基準値を上回る気力を初心者ボーナスで持っていた。でも気力が基準値に戻っていった。社会はボーナスブーストを保ったままの人たちが多いので社会の方はそちらを基準にしているようだ。人と社会は違う…)…みたいな

 

私は好影響のある要素を今の範囲内から見つけ出すことができているというだけで。そしてこの「いいものをつかみ取る/認識する」力も何らかの要素に影響されて得たものである。

要するに、自分で自分のことコントロールすることは本当はできないんだなって。

「自分は落ち込みそうな時はプリンを食べれば気分が良くなる」と分かっていればそうすればいいけど、そうしてもやっぱりだめな時があっても自分だけのせいではない。そして、その対処法を思い出せてなおかつ実行できそうならば、そんな状態に自分を持って行けただけでスゴイよね。あるいは、対処しようという気になる程度には生きる気力を誰かに何かにもたらされているのもスゴイ。

周りがあるから自分があるんだ感謝だなーと思うことで気分がよくなるのならそう思えばよくて、こんな自分スゴイな—と思うことで気分がよくなるならそう思えばいい。落ち込んだことを周りのせいにしちゃうのも、もしかしたら至極当たり前で仕方のないことかもしれない。本当はどれでもいいかもしれないし、選んでるわけではないかもしれない。

私はやりたいことが何かはまだ分からないけど、何かをしたくて、何らかの形で世界をよくしたいなーと思う。そういう方向性で「なんとかしよう」と少しは思えて少しは行動に移せているので気分がいい。世界をよくする前に自分をよくすることは少しはできている。今は私すごいなって思うし、それが気持ちいい。気持ちよくなる要素を備忘録に書いてみた。今度落ち込んだ時にこれくらいの要素でまた持ち直せればいいなと思うけど、「何書いてんだコイツーー!(# ゚Д゚)」と思うんならそれも仕方がない…

 

真っ当になりたい、唇の皮もう剥きたくない

考えずとも習慣にすれば容易い行為の積み重ねで普通の人は普通を保っているのかもしれない。唇の皮をむかない、頭と体を洗う、ご飯ちゃんと食べる、ごみ置きっぱなしにしない、大体同じ時間に寝て起きる、もじもじしないで人と話す、とか。

私が唇の皮むいちゃう理由なんて考えればいくらでも掘り起こせると思う。無意識な自傷だとか、人の眼を気にしないだとか、「ちゃんとした人でいる」ことを最初から諦めているのでむしろわざとだらしないことしちゃうだとか、皮をむいて捨てられるので自分を掃除できた気分になるだとか、全部当たってると思う。

本当は、容易い行為を積み重ねて真っ当になるなんていうのは前はできていたはずだ。人と話すとき挙動不審になるのは前からだけど、気を付ければちゃんとできなくもない。振る舞いがawkwardなときは大抵一人で勝手に惨めになっている時だ。「どうせ私は非リアな不細工ですよ、いつまでたっても大人になれないどころか宇宙人ですよ」といじける。そういう時は、どうせ100をつかめないのだから1だって要らないとでも云うように周りを拒絶しているのだ。相手に与えられるものなどないと表現するかのように、だらしなさを隠しもしなくなる。ここ数年で「もう惨めでいいや」と思うことが増えた。周りに認められたくなんかない、みんな大っ嫌いだ!江の島は僕がのっとったー(みんなみんな大っ嫌いだ!といった後はいやな後味にならないように、つり球の真似をしているという体で「江の島は僕がのっとったー!」というセリフをつけなければいけない)

それでも自分がみっともないばかりでいるのは情けない。真っ当になりたい。それは他人の眼を気にしてのことなのか、自己実現欲求からか、わからない。真っ当になりたい理由の根本的な気持ちを理解すれば、そこから「真っ当になる」を実現せずに幸せになる方法を探せるのかもしれない。問題を解決しないで解消するというやつ。(俺ガイルでよくあるやつ)

とにかく、唇の皮むくのは痛いから嫌だ…昼夜逆転も、しんどいから嫌だ…

「嫌だからやめる」をシンプルに実現させたい。他人を意識していじけるより先に。それをするのが当たり前だから真っ当な日常生活を送る、それだけになりたい。

 PS まぁ、他人といる時のだらしなさは上記の通りかもしれないけど、家の中のこととかって心の余裕がないからできないことばかりだよね。最大HPが多い時は多少の継続ダメージが誤差の範囲内でも、最大HPが削られると少ないダメージでも深刻になってくるからね。最大HPを増やす努力と、ダメージを軽減する努力をしなきゃいけない段階なんだろうね。

文章書き出すと、自分でも知らなかった脳内を掻き出すようにスルスルと出てくる

体調を崩すとすぐに何もできなくなる私です。アニメ見るのとTwitter見るのと最低一度食事するくらいは毎日してるかな?とはいえ少しずつ細かい作業を消化しているわけなので、そこは偉い。

 

長文って全然読めない。長文じゃなくても同じテーマの文章ずっと読んでられない、飽きちゃう。本ってずっと読み続けるのが辛い。面白くて読み進めちゃうようなものでも、途中で「あ~これ続き気になるけどこれ以上は無理…」ってなって休憩を入れる。

でも長文書くことはできる。なんでだろう。

 

脳内で考え事してるのって、例えるならば森の中を印もつけずに歩き回る感じ。私は脳内メモリの容量が小さくて、森の中で道を覚えてられないので、同じところグルグル歩き回る感じ。あまり遠くにもいけない。

書き物するのって、森の中をGPSマップと紐を持って歩いてる感じ。考え事だけでは組み立てられなかった道順を、歩いていくうちに組み立てられる。書いている途中で書きたいことがわかるのは、歩くうちに森の面白い道を見つける感じ。言葉を積み立てるうちに、自分でも思いもしなかったものがかけるようになってくる。

書いてるときじゃないと見えてこない脳内情報ってあるよね。

わからないなと自覚することがうれしい

展示会も無事?終わり、しかし展示会前にあった「毎日何かする」という意識を継続させている毎日です。
平日は作業やインプットに明け暮れる(というほどせかせかしてもいないね!)。

そしてアニメを見まくるのもそのうちでして。

英字幕で見る意味

私は軽い字幕オタクなので、とにかく英字幕付きでアニメを見るのが好きです。

言語には文化規範などがついてくるもので、同じ意味の言葉を並べても言語が違うと印象が違ってくるものです。

しかし文脈を理解するためには意味ではなく印象を合わせる必要があると思います。

多数ある似た意味の言い回しでどれを選ぶのか、どこまで元のセリフにないものを訳で持ってくるのか、そういうものをリアルタイムで元のセリフと照らし合わせて見れるのが楽しいですね。

わからないものを見つける歓び

そして、もちろん私も日本語英語ともに完全に理解できるわけではないので、片方にわからないところがあれば調べたりメモしたりします。

その調べる作業もまた楽しい。「わからない」があることを、引きこもりの私のお気楽な趣味からほどよく見つけ出せるというのが楽しい。

もちろん私にわからないことなど世界にいくらでもあります。というかわからなすぎて、全てに興味を示せば頭がパンクする。そして私はパンクしてしまうような人間で、心が少し病んだので今はあえていろんなものから離れています。

アニメ、漫画、音楽などは特に理解しようと頑張らなくてもそれなりに楽しいものです。文章は文字を理解できなければ理解できない自分を責め始めてしまいますが、絵や音はそれ自体pleasingなものですので。(詩はちょっと絵とかに近いかなぁ…)

要するに、わざわざ調べなくても楽しいものから「わからない」を拾い出せる自分に喜びを見出せる。それはわざわざ調べないといけないような難解なものはやがて自分の体力不足で諦めてしまいがちだし、「”わからない”に目をつけることのできた自分スゴイ」と誇らしく思うこともできるからです。

好奇心は自分で育てる

私は好奇心が強くて「楽しい」を仕事にできるような人(アカデミアに残る人、精力的に仕事する人など)を見ると嫉妬してしまいます。私の好奇心は挫折に負けたからです。仕方のないことですが、人が自身を責めるのはよくあることですし、嫉妬もよくあることで。

私も割と好奇心が強い方だと思いますが、興味関心を行動に移し継続するのは苦手です。おそらく興味が別のものにすぐに移るからだったり、体力不足だったりもあると思いますが。

先ほど、字幕の中のわからないものを調べる時の高揚感、そこから語学や言語への興味にも火が移り、軽くoverwhelmedにならない範囲で関心にまつわるキーワードで検索をかけたりしました。「ぐぐる」というワンクリックの行動ですが、行動は行動。そしてこの時思い当たりました:「もしかして好奇心で行動を起こせる人というのは、高揚感の火が消える前に別のものに火を移し替えるのを繰り返して火を自分で大きくするのが得意な人なのでは?」要するに、一人で勝手に盛り上がって色んな物事を脳内に巻き込んじゃえる人が、私が漠然と嫉妬していた人なのでは?と。

アニメ字幕でわからないことがある→わからないものを調べる→好奇心が満たされても好奇心の火が別件につく→別件を調べる→(もしかしたら別の行動に移る?)→(もしかしたら色んな好奇心を満たす行為を後から見返したら何かを習得するにまで至るのか?)

もしかしたら当たり前のことかもしれませんが、私にも関心を行動に移して更に別の行動を起こせたということが嬉しかったのです。

ちなみに、字幕のわからない単語を調べた後調べたキーワードは「言語 文化規範」です。前から見かけていた概念ですが、どういう感じで提唱されているのかと思って。言語学はよく分かりませんが、これを意識してドイツ語や中国語を読んでみたら楽しそうだなと思いました。文法を学ぶ語学自体も好きですが、言語に何が引っ付いてるのかも楽しそう。

無駄に大見出しを随所に入れてみた

挫折して以来、あらゆることへの強い興味、情熱などが消えて、人生で何がしたいのかもよくわからなくなり、何もかも面倒になりましたが、死ぬつもりもない。せめて生きやすくするために楽しみを見つけられる自分に建て直さないといけません。まずは些細なことから「ここまで建て直せたんだなぁ」と自覚できるように。そして自覚するたびに喜びを味わえるほど心に情緒が戻ったことにありがたみを感じます。

 

 

元気になると不安が再発

抜け出せると思うと枷の存在を思い出す。

何年前からかもわからないけど、ある頃に心身の調子を崩してストレートな道から外れることとなった。

ストレートがなにくそ!と思って、あらゆる道とそれらの分かれ目を肯定しようとしても、道の険しさだか、足枷の重さだかで気が滅入る。

 

毎日何かできてる。生きてるだけでいいもーんと思って休んでいたころに比べれば躍進していると思う。

まぁ、何かできてる自分に前の時期を「何もしてなかった時期」と認めるというわけではなく(確かに、何もしてなかったけど、否定的に認識するわけではないということ)。だって必要な時期だったし。私は常にその時できる最大限の努力をして生きているので。ある時にしなかったことは、その時の自分にはできなかったこと。後悔なんかしてたらキリがないもん。

 

「あ、できてる!できてるよ!これから、きっとなりたい自分になれるんだよ」

毎日何かをしていると、そう思えてくる、それはいい兆しだけども…。私まだ、自分が何になりたいのかもよくわかってないんだよね。早くやりたいことリスト書かなきゃ。まだリストは書ききれてないけど、書くとしたら絶対書くであろう項目の実現に必要なアクションは今ちゃんと取れてる。やりたいことリストを書き出すとしたら、「自分が文章で表現したことが他人の心のどこかを刺激するものとなってほしい」「自分の心の気持ちいい表現を絵で成したものを人に認められたい」「素敵だと思う格好を自分もする」「食事や睡眠などの体の維持に必要な行動を心地の良いキラキラしたものにする」「欲しいものを自分で作る」とかかなー。あと90個くらいは書き出さないと。

やりたいものを成すのに必要な最低限のステップをポツポツとっている:例えば人に見せる用の文章を公開する(はてなブログだけじゃなくて、Mediumというプラットフォームでもアカウントを作ってみたり、Twitterで鍵なしでツイート続けたり)、絵を描いて公開する(FBなどにも載せる)、出かける時は可愛い恰好を楽しむ、料理や盛り付けを楽しみつつ味わってご飯を食べる、食べられる植物を育てる、など。

これら自体はいい兆し、ただ、やはり自分を労わりつつ挑戦していく道は複雑なものだ。

 

行動の末に味わうのって色んなことができるようになった達成感だけじゃない。「ああ、こんなことすら前は難しかったな」という切ない追憶、これはまぁどちらかというとポジティブな感情だけど。ネガティブな感情だと、パブリックに公開することで得られる知らない人や知ってる人からの反応。否定的な反応はもちろん、肯定的な反応ですら怖い。まだ、novice以上に思われたくない。なんで皆私のことが見えているんだろう。他にも、とにかくしんどい。体力のなさを実感するとともに、精神力が削られる。どこから出てるのかもわからないけど。

そしてタイトルに戻ると、元気になったところで、元気ないときに自己防衛で見ないようにしていたものが再び襲ってくる。将来への不安、自分の道の先がどこに続くかの見通しを立てようとしてしまう。先を見ると、準備不足を思い知らされる。

だから、これからは足元だけを見ながら足を動かす段階に入りたい。これまでに、脚が動けば動いて動かなければそれでもよかった段階、そこから足を動かしながら前をチラ見する段階まで経由したのだから。問題が起こったら、その都度対応する。また足が止まっても別にいいけど、足を動かし動かして足枷に負けない。足枷と相談する。

 

よく、回復期が危ないと云う。完全に治ることはないと思う。治る・元に戻るんじゃなくて、新しくなっていくんだから。でもそれは調子よく続けていても同様のことで、変わらないことなんて無いので。

 

ちなみに、はてなブログ(ここ)は体裁としては自分用の文章…と思ったほうが楽だからね。
そして、外界に文章を送り出すという意識で書いたものはMediumに。↓

是非読んでほしい。後で修正しなきゃ…

medium.com

 

これ書いてる途中で「やっぱり頑張る!」って気持ちになったんだけど、多分文章を紡ぐというカウンセリング効果と、タイピングのまるでピアノをフリースタイルで楽しむようなリズムと、聞いてる音楽のおかげだと思う。

こういう予測できないところが表現の楽しみだよね。絵もかいてるうちに路線変わったりするし

無心でいたら好きを思い出した

前回のブログの時は、どん底モードからの復帰の明確なラインをcross overした記録が文章になってて中々面白いと読み返して思った。

今は前向きに生きててすごい。

あれから私は無心で生きることにした。

せっせと手を動かしたりしてる間のことは後になったらアッという間なのだ。

人生がめんどくさすぎるけど死ぬ気は今のところないので、生きること前提に話を進める。

何もかもを諦めて自棄的に過ごすと、ぼーっとして過ごすよりもっと辛いのだ。痛みや苦しみは紛らわせたほうがいい。初動をかけるのはとても面倒だけど、最初からぼーっとしていれば多分初動の辛さも感じないはず

 

ここ数日はずっと午前5時頃に起き上がっている。まだ昼夜逆転を脱してから4~5日しか経ってないので目が覚めるのはもっと早いけれども。

意識的に食事での咀嚼回数を増やしている。怠ると本当にあとが辛い。

可愛い服を着て過ごしている。何してても気分が華やぐ。

掃除をする。体だけ動かして頭は何も考えないようにするための典型例。とはいえやはり考え事はしてしまうけれども、少なくとも作業が終わると考え事の余韻が残らずに済むので良い。

最近までかなり体調を崩していたので、色んなことができなくなっていた。起きているだけでも疲れるのにこれほどやるのは正直しんどいが、何もしないとただしんどいだけなので今はこれでいい。

できないことが減っているのが実感できるので感動的だ。

植物達に水やりができるようになった。色んなものに可愛いと思えるようになった。食事内容を意識するようになったし三食食べれるようになった。小説が読めるようになった。

寝込んでる間はあらゆるものへの興味関心が失せていたし、身の回りのことを意識できないほどに、頭の中の会議内容は常に私が生きてる世界からかけ離れていた(生と死とかそういうレベルのこと考えてた)。苦痛を和らげるためのあらゆる方法を検索するものの実行できないでいた。「わかってるよ!」と泣きながらやはりできなかった。余計なことをする余裕が体になかったのもあるけれど、頭の無意識の領域のほとんどがいっぱいいっぱいで、新しいことを実行するためのキャパシティがなかった気がする。少し回復したときに栄養を再び取り始めて、更なる回復に向かっていった。

「わかってるけどできない」というのはずっと前からあるし、たぶんこれからもずっとあると思う。

今いろんなことができるようになったのは、「わからないようにしながら終わらせる」をずっとしているからかもしれない。目に入れたくもないけど自分で始末しなきゃいけないものを無理やり見ないようにして無理やりぼーっとしてる風にリラックスしてやり遂げるように。

ぼーっと無心でいるようにしても、実際は脳内はあらゆる思考がぽんぽんわいてくる。ただそれを大事にとらえないように、ぼーっとする。ただ、「あれしたいな」とふとわいてくるspontaneity自体は大事なものと決めているので、たまにすぐに実行に移したりする。ぼーっと半自動的に手が実行に移すので、これまで何したかはあまり覚えてない。朝イチで床にモップかけたのは多分その気まぐれによるものだけど。

「よ~しやるぞ!」「う~んほんとは嫌だけどーいやだけどー!!!」とかいう心の葛藤や感情を消費せずにすむので、結構楽なのだ。

「わかってるよー!(やらない)」みたいな、頭では効能がわかってるはずの生活術をさらっと実行にうつしたときの副次的作用を体感する機会も増える。さっきはなんとなく机の上を片づけたら、文章を書く気になったので今書いてる。

 

昼間ずっと起きて何かしてるのは、精神的な苦痛を味わわないようにするためだけでなく、肉体的にも痛いのから自分を遠ざけるためである。うっかり横になると逆に痛むし、うっかり昼寝でもすればまた昼夜逆転に戻ってしまう。昼夜逆転中は睡眠時間を確保しててもなぜか動悸がひどい。

今は痛みがまだ残ってるから「これ以上はも~いや!」と体が夜寝て昼活動するサイクルを維持してくれているのかもしれない。体がこの痛みを忘れはじめたら、また悪循環サイクルに入るかもしれない。

 

 

 

 

疲れたけど面倒だけど待ってよ

あまりにも生きることに疲れた。

多分かれこれ10年くらいはずっと疲れてたんだと思う。

若いのも、もっと大変な人がいるのも、結果が出ないのも、疲れをなかったことにはしなかった。

とにかく何もしたくないし何もかもつまらない。

 

人と関わるのも疲れるので、関わらないようにしたけれど、やはり大多数にとって魅力的なわけでもない人間が関心を示さなければ、みんなもこちらに興味を示さない。

人間を認識するめんどくささを惨めなまま死んでいく恐怖が上回った時、ふと人に話しかけたくなる気分を沸き起こすハイが生じる。

ハイのままに会話して、内心「最悪、もう話しかけないでくれる?」と返されないかびくびくする。

相手に興味がないわけではなく、魅力的だしもっと知れたらいいと素直に思う。

でも相手を知るための場を固めるプロセスが楽しくない。つまらない会話をけしかけてごめん。

相手は私に興味がないのだ。相手の表面的な魅力を期待するだけで、他愛なくとも確かに互いに向き合えている時間を大事にしない私と同様に。

 

体が痛いので、早めに寝た。といっても、昼夜逆転中なので、昼間に寝たいのをがんばって活動し続けて夕方まで待ってようやくだった。
この日は早朝から活動しっぱなしだった。楽しかったけれど、辛い中体を引きずってやったことだった。やりたいことリストは一つを除いてすべて達成した。

次の早朝(というより真夜中)に目が覚めた。もう寝れなさそうなので、「必要なら日中椅子に座って昼寝しよう」と思って起きだした。

本当にやりたいことがない。人生のこれまでのすべても些細な暇つぶしで、これからも暇つぶしのためだけに茶番じみた苦難を歩んでいくのかと思うと気が遠くなった。

社会復帰してもしなくても恐ろしいほどつまらなくて、面白いことや感動することに直面しても、白けてしまう劇中劇みたいなものなのだろうか。

こう感じて気が滅入るのも、心身が不調だからに違いない。

朝起きだすにあたって、何をするかを考える。そのために前日のことを思い返す。

昨日はたくさんのことをしたな、(達成感を味わうまでもなく)疲れたから二度とごめんだな。昨日はなんとかなったけど、今日は何時間もやり過ごせる気がしない。ああ嫌だ、何時間も苦しい思いしなきゃいけないのはつらい

もしかしてずっとこんな風にかろうじてかろうじて生きていくのか

 

何もしないで何もかも諦めてずっとずっと眠っていたかったけれど、そうもいかず、おなかも減る。とりあえず大学に入りたてのころ気張って毎朝五時ごろ起きて食べていた朝食を思い出し、その頃の健気さで自分を勇気づけて起き上がる。

ふわふわ羽衣で浮かされているような気分でいることにした。自覚があるとしんどいから。

消化が悪いとたぶん胃腸がもっと痛くなるので、ハムスターみたいに頑張ってたくさん噛んだ。大学一年の気張ってたころのように、立ったまま食べた。

疲れたので座った。世界の新たな地点に来た大学一年のころとは違い、世界が閉塞的に感じられてつまらないので、外界への窓のつもりでパソコンを立ち上げた。

更新が始まってしまったので、手持無沙汰に散らかった机の上に置きっぱなしにしていた小冊子を手に取った。かつて意識を高く保とうと必死で参加していたイベントでもらったものだった。とある著名人のbioが載っていて、「よくもまぁたくさんの歯車を動かす初動を持っていたな」と、あらゆる社会人に普段感じるようなものを抱いた。

でも羽衣で浮いているので、すごい人を見てダメダメな自分がガーンと沈むことはない(比べることすら分不相応のようでも、いつもあらゆるすごい人に圧倒され嫉妬してしまうのだ)。その小冊子を読み進めた。「〇〇するには:」などのtipsが簡潔にリスト化されている。でも心配事を乗り越えるという項目にはただPrayとだけあった。最後の項目の一番最後には、Don't worry about insomniaとあった。

信じているものがあると公言している友人といると、たまに食前に祈りを聴くことができる。食前でなくとも、人が祈るのを聴くのは好きで、自分でもたまに祈ったりする。些細だがそういったバックグラウンドの思いがあるので、一言だけのPrayにやたらと説得力と「だよね」を感じた。多分今こそ祈ったらいいんだろうけどそれは別。

そして眠れないことを心配したって仕方がないのも「だよね」と安心した。自分が自分にかける言葉の、なんとも無理やり納得させる努力の涙ぐましい、情けないこと。

「入眠という、違うモードに入る行為は、脳内のギアチェンジが難しい人間にはとても難しいこと」だと自分でわかっているつもりでも、今の自分が自分に言い聞かせている限りでは「まぁ、確証はないけども、私にとってはそうだからそれでいいんだよ!」という諦めが前提なので、結局虚しい説得にしかならないんだ。

とにかく、authorityがある人間が一言そう言い切れば、心は少し前向きになるんだ。

 

まるで小冊子の前向きさにあてられたかのように、意識をふわふわ無関心に浮かせる羽衣は、indifferentなぼんやりから自分のための前向きさにギアを小さく入れ替えたようだった。

ああ、めんどくさいな、何もしたくないけど…今この場で一番したくないことってなんだろう。それをまず済ませてしまおう。

洗い物を片した。めんどくさかったけど、もとよりこの日は羽衣付きのふわふわな心なのでめんどくささを生身で感じなくて済むのだ。ぼんやりと手を動かした。