暴力的な白の中、ホカホカ汁物

TCKによる元・留学ブログ。夢を手放して色んなことをリハビリがてらやりたいな

文脈を無視した突発的なことが好き

前回のブログのわっかりにくい内容、私も「これってこういうことかな?」と手探りしてる最中なので仕方がないね。

言語化以前に、認識すら危ういからね。

でもTwitterとかで色々頑張って私自身と向き合っていたら、自分の感情や、ものの考え方や、大事なものに関する理解が少しは進んだ気がします。これが本当に自分自身なのかどうかは、これから分かっていくことです。あるいは、わからなくても自分の謎に付き合っていきます。

こんな心持ちなので比較的他人の目(自分自身の別の見方)から見た文章のわかりやすさもちぃとばかしは意識しております。

前回のブログの引用をしていきます。

 

人付き合いが疲れるのではなく、友愛的文脈の心にもっていくこと自体が疲れる。

文脈という言葉を私はよく使います。ある物事に特有の背景事実の繋がりや、予測し得る物事の影響範囲などをざっとひとくくりにしたいときに。

「この人にはこういう事情があるんだから」とかそういうことを言いたいときに普段よく使っていると思います。今回は「自分はこういう意図と意識をもっている/いた」といったことを同系統でまとめる感覚で使っています。(余計にわかりにくいぞ)

友愛的文脈について

私の内心を大まかに二分化してみます。

  1. 私は友達のことが気になるし、仲よくしたいし、たまに心配もします。
  2. 私は他人に興味ないし、なんなら人類滅んだらいいと思うし、あまり関わらないでほしいと思う。

どっちも私の本心なんですよね。大体みんなそうじゃないですか?
どういうときに1、2の心境になりやすいか書いてみます。

  1. 運動などをして気の巡りがよくなる、きれいなものを見る、 ...→体が軽く感じられ、世界って悪くないなと感じる→自分に余裕があるので他人のことを考える余裕があり、「与える側としての自分」を意識する余裕もでてくるし、先のことを前向きに考えやすくなる
  2. 体が痛い、嫌なことがあった、... →嫌なことばかり連動して見えてきて世界に絶望する→他人含め、未来にも過去にも意識を伸ばしていく気力がなくなる

こう書くと時と場合によるだけと思われるかもしれませんが、1の友愛的な心境も2の無関心な心境も同時に起こることが多いんですよね。

人とコミュニケーションするときは友愛的な1の面を優位にする。すると自分のこれまでもこれからも、前向きな文脈で考えるようになる。
些細なことで傷ついてパニックになれば、思考すら傷をえぐるので退廃的な2の面が優位になる。

どの面も同時に存在しているけれど、普段は色んな事が難しくなった自分を慰めるために厭世的な面を優位にしています。上記のフローチャート風の流れに沿えば、自然と別の面が呼び起こされます。しかし人と会うときなど、必要性に駆られてスイッチを急に切り替えるのはとても疲れるのです。

 

物の手順を考えて更に実行もしなきゃいけない。そして同時にあらゆる挙動が未来と過去の手順の連続だと確認しながら時間軸進めなきゃいけない。

これは本当に分かり辛いと思うし、自分でもいまだにピンと来たりあやふやになったりを繰り返している部分です。今のところは、たまに出てくる症状(?)だから頑張って思い出すしかないのよ…

さっき、前回の記事の日(買い物に行くと決めて出たら不安になった)とは別の状況でこれが発動しました。

私のTwitterアカウント(https://twitter.com/greatlouisc)は今のところフォローフォロワー両方共0で使っているのですが、そろそろ好きなアカウントとか友達をフォローしようかなと思い始めました。すると誰からフォローするかとか、どう挨拶するかとか、色々考えちゃうんですよね。あらゆる可能性と結果を読んだうえで比べるなんて芸当はキャパオーバーなのに、やろうとしちゃうんです。

頭の中でペラペラペラと、iPodのカバーフローの効果音が聞こえてきたので脳内処理を停止してフォローフォロワー数0のままでいこうと決めました(フォロワーが増えるのは構いません。今の使い方だと増えないと思うけどね)

ここでも文脈なんですよ。

過去の私のAという選択→今の私が取り得るB、C、Dという選択肢→それぞれに伴う結果E、F、G、… 

という時系列の中をあっちこっち意識するだけでも疲れるのに、「今私はBからEに移っている、移っているよ、ああ~~移る~~」とスローモーションでガン見しちゃうんですよ。ガン見しつつAからX(さすがにすべてを見通してるわけでもないのでZとは言えない…)まで行ったり来たりです。よくわからないけど、とにかく頭がおかしくなるし、A~Xのすべてから不安要素を抜き取って生身で受け止めてしまうんです。

 

 

突発的に何かするのは好き。一瞬の思いつきと選択って、前後の文脈がないから。

あるいは、ただ理由を考える必要もなく好きな家庭菜園が好き。毎日水やりする前に必要なことはなく、水やりした後に水やりを意識しなくて済むとわかっているから。

Spontaneityと植物の水やりだけは、今のところ私の中の煩雑な時系列/文脈からは独立できているみたいです。

自分の中の文脈の束を植物に例えるなら、建設的な根っこと幹と枝を意識したいものです。雑草を絡まらせて繁雑さにうろたえるのではなく。

 

というわけで、この後はお蕎麦でもゆでて食べようかな。